『高校生の悩みなんてたいしたことない』と言えることの傲慢さ。
『教師になりたい』という目標の理由の1つに、『高校生の頃の私を救いたい』というものがある。
「高校生の悩みなんてたいしたものじゃない」「社会に出たらもっと大変なことはたくさんある」などの言葉をぶつけられるたびに自分の心はよく殺されていた。
中高一貫の私立に通い、自然と部活も6年間同じことをしていた。父親から「運動部に入れ」と言われなんとなくバスケ部を選んだ。弱小だったが中学は楽しくやっていたが高校3年間で私は自分で自分の首を絞め殺すことになる。
その経験が苦しいものかどうか、その度合いは、「状況そのもの」よりもその時の「思考」が大きく影響していると思う。たとえ同じ状況でも幸か不幸かは捉え方次第だったり、またその人の思考との相性次第というのは大きいだろう。
あの頃の私の思考や状況は大まかに、
「かっこよく生きること」を追い求めていたこと。
「弱さは恥だ」と思っていたこと。
愚痴をこぼすことが暗黙の了解で許されない状況であったこと。
「高校生の悩みなんてしょうもない」と親に思われたいこと。
部活以外でも全ての行動をチームメイトと過ごしていたこと。
これらが合わさり、私は最終的に「悲しむこと、苦しむこと、嫌だと思うこと」などさえも罪であり恥であると自分を責め続け、感情さえ許してはならないものとしていた。
惨めに思われることは私にとって死よりも恐ろしかった。
「人に弱さや涙を見せることは恥」だから誰にも頼らない。
それでも本当は助けてほしくて少し弱音を吐いてみても「周りだって頑張ってる」「顧問も人だから仕方がない」「他にもしんどい人はいる」と受け取ってもらえることはない。
そうなるとさらに(ああ、それなのにこの程度で苦しんでいる私は本当に出来が悪く価値がない。)と自分を責める。
毎日が暗くて、次の日が来ることに怯えていた。たった一人でいいから誰かから必要とされたいと一人で涙を流す夜もあった。
それでも一度も誰かに悩みを打ち明けることはなかった。悩みを見せることの方が自分にとってさらに自分を苦しめることだったから。誰にも言わず、何も感じてないようにヘラヘラ笑って過ごすことで自分の最後の小さなプライドを守っていた。実際「何も悩みがなさそうでいいね」と言われていた。
逃げることさえもできなかった。逃げ方も逃げる先もわからなかった。たとえ部活から逃げようがその先にどうせチームメイトがいるのだから、何の意味もなかった。辞めた後「あいつは逃げた」というレッテルを貼られその後もずっとそこで恥を晒しながら惨めに生きなければならないことに耐えれなかった。
「部活動そのもの」からの苦しさよりも「自分の思考」に苦しめられている限り、逃げ場なんて存在しなかった。
それでも一度、「辞めよう」と強く思った出来事があった。
試合の数日前になると毎回顧問からユニフォームが全員の前で渡される。どれだけ実力に差はあれど、二年生の中での順位→一年生の中での順位で番号はつけられる。なのでどれだけ最低でも『私は二年生の中で一番下なのだろう』と予防線を張っていた。
しかしその日、顧問から私の名前が呼ばれることのないまま一年生の名前が呼ばれていった。顧問は私のことを忘れていた。途中で数がおかしいことに気づいてやっと彼は私を思い出し、笑って私の名前を呼んだ。全員が見てる中、私も情けなく笑い返すしかなかった。
「恥さらし」「公開処刑」だと恥ずかしさと惨めさでいっぱいだった。その後一緒に帰ったマネージャーから「あれはひどいよね」と言われた時も「え?あー、まぁ、そういうこともあるんじゃない?」と気にしないふりをすることで精一杯だった。
(あれだけ予防線を張っていたくせに、それですらなかったなんて、なんて滑稽なんだろう)と哀れでしょうがなかった。
その時は流石に(もう辞めよう、この試合が終わった時には辞めてしまおう。)とヤケになっていたが、結局日が経つにつれ勇気がなくなりズルズルと続けてしまうことになった。(辞めることさえもできないなんて)とまた自分を責めながら。
それからは何か辛いことが起きてもひとまずは『いてもいなくても同じなら、いよう』と呪文のように唱え続けごまかしていた。
もしくは、何かまた自分にがっかりしそうになった時には(え?なんで今がっかりしようとしてるの?おかしいよ、だって私は私が何もできなくてダメな奴だって知ってるでしょ?がっかりする必要なんてないよ。初めから価値なんてないんだから。)こうやってこれ以上自分に失望しないで済むように、心を守るために自分を諦めていた。
『死にたい』より『消えたい』という欲求の方が強かった。毎日『存在が初めからなかったことになればいいのに』と願っていた。死ぬことは他のことを考えた時に面倒ごとが多かったから、消えられたら楽なのにと思っていた。それでも消えることなんてできないから仕方なくどんな風に自殺したいかを考えていた。
父はよく「自殺をする奴の気持ちがわからない。死ぬ勇気があるなら他のことができるはずだ。」と言っている。
自殺は勇気じゃなく、誘われるものなのだ。死が甘美な響きに見えていた。(死んでしまえば君の苦しみは全てなくなるんだよ。だから、ほら、)といつでも横で私を誘惑する。なんて魅力的なんだろうと導かれそうになることもあった。
死なずに済んだ理由は、まず第一にこの苦しみにわかりやすく終わりが見えていたことだ。三年の五月になれば自動的に引退してここから去ることができるから。あと何ヶ月と毎日数えながら過ごしていた。もし終わりがなければ私は死んでいたかもしれない。
そして第二に、私は何より「惨め」や「恥」を人に晒すことに怯えていた。もし失敗してしまったら?自殺さえできない自分を、そして今まで必死に隠していたものを人々に晒してこれから生きていかなければならなくなる可能性。それは、その時の苦しみよりさらに酷いものだった。
細かくは他の理由もあるが、大きくはこの2つだった。そのおかげで、と言えるのか、私は今も生きている。
「バスケが上手くなりさえすれば全て解決できる」と思い込んでいたが、自分を諦め現状維持に精一杯だった私には、上がることも逃げることもできないまま、引退の日までただただ耐えることに専念していた。きっと終わった後には達成感を味わえると信じて。
結局達成感もへったくれもなく、終わった後に残ったのは心の傷だけだったが。
あれから約5年が経ち、新たな環境や人間関係のおかげで、限りなくゼロだった自己肯定感はかなりの回復を遂げたがそれはまた別の記事で書くことにする。
起きている出来事だけを見れば私の経験したことなんてとても小さいと言えるのはわかる。でも私の苦しみの根源は私の思考だ。だからどれだけ「世の中他にも大変なことはある」と言われても何の慰めにもならない。むしろ(じゃあこんな小さいことでここまで苦しめられている私は何なんだろう)とさらに自分を責めるだけだ。
結局私は「しんどい」と訴えた時に「そうだよね、しんどかったよね。」と誰か一人でいいからそっと受け止めて欲しかっただけなのだろう。
現段階では、あの頃の自分の傷を抱きしめてやれるのは自分しかいない。自分の弱さをじわじわと人に見せれるほどには自己肯定感は回復したが、ここまで話してもなお「そうは言っても学生の悩みはちっぽけなもんだよ。」と否定されることが多数で、未だに心のもやが増えているのも確かだ。
自分の傷を一人でいいから受け取ってもらいたいと思うことは傲慢なことなんだろうか。